エイ・ダヴリュー・エイ

屋号説明

1990年設立のオーストリア高級ワイン等の輸入販売商社。
オーストリア、ブルゲンラント出身の代表が母国の美味いワイン
が輸入されていないことに慨嘆し、一念発起し起業。

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代表取締役 ノベルト テッシュ氏のプロフィール

1962年オーストリア、ブルゲンラント州生まれ。1989年来日。当初はアパレル関係の仕事に従事。日本に母国オーストリアの美味いワインが輸入されていないことに慨嘆し、自身で少量を取り寄せたことがきっかけとなり一念発起。生家は葡萄栽培農家、専門学校時代は醸造機械専攻。その手腕とバイタリティーと熱意でビジネスを軌道に乗せる。日墺イベント活動を通じ多方面で幅広く活躍。

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オーストリアワインの歴史(古代)

現在オーストリアでは何千年も前から、ブドウ栽培が行われていたという記録が残っている。紀元前800年の古墳では、その当時に栽培されたブドウの種の遺跡が発見され、ローマ時代の史料から、ケルト人やその祖先のイリュラ人が紀元前400年には、ブルゲンラント地方とシュタイヤーマルク地方で簡単なワイン栽培を行なっていたという事がわかっている。約2000年前、オーストリアはローマ人に支配され始め、ノリクム/パノニアという地域に(現オーストリア)ワイン栽培が広げられてきた。その時代の気候もブドウ栽培に非常に合っていたという。ドミティアン帝は91年には、ローマのワイン(現伊ワイン)栽培者を守る為に属国での栽培禁止を公布した。この栽培禁止令は殆ど200年の間続き、プローブス帝によりこの令が解かれてから、ワイン造りが正式に始まった。このことから、プローブス帝はオーストリアのワイン栽培の父と呼ばれている。

オーストリアワインの歴史(中世から近世)

民族大移動の嵐の後、カール大帝によりワイン栽培が増々広がり、ワイン製造基準を打破し、品種をその特性によりフランケン種(高級種・例ブラウフレンキッシュ)とフン種に分けた。このブラウフレンキッシュと言う品種が、カール大帝の命令でオーストリアへの移住者によって持ち込まれ、現在はもっとも顕著なオーストリアの品種として有名である。その後、さまざまな修道院の協力で栽培畑が特にドナウ川を沿って広がり、現在のブドウ畑面積の10倍を占める程になった。その当時は、現在よりワイン消費量が多く、クレムス市(今でもワイン栽培で有名な町、ウィーンから約1時間)の史料によると、市民の平均ワイン消費量が一人当たり180リットル /年であった(現在オーストリア人平均消費量32リットル/年)。既に中世紀から貴腐ワインの収穫を証明する史料があり、一番古いものは1526年に造られたトロッケンベーレンアウスレーゼの「ルタワイン」(Lutherwein)である。貴腐ワイン製造方法の由来はオスマントルコとオーストリアの争いであると考えられている。ワイン栽培者が敵軍から逃げ、晩秋に畑に戻った際(晩秋になるとオスマントルコ軍が冬から逃げるためにオーストリアから出た)ブドウが無事に残っており、完熟したブドウから甘口ワインが造れることを発見した。その当時から、甘口ワインが蜂蜜や果実の代わりに、食事に甘味を付けるためのものとして使用されていた。しかし、中世期は気候悪化やビール消費の増加により、栽培畑面積が減少した。新しいワインブームが18世紀に始まった。1784年にはヨセフ2世(マリア・テレシア女帝の長男)が帝政の特許権(チルクラール・フェルオルドヌングZirkularverordnung)を公布し、その法により、だれでも自家製の飲食物を販売できるようになった。

オーストリアワインの歴史(18世紀から現代)

その頃、現在もその伝統を残すオーストリアのワイン居酒屋「ホイリゲ」が登場した。19世紀は世界中で、ブドウネアブラムシの突然大量発生がおこり、オーストリアでも多大な被害を受けた。しかしブドウネアブラムシへの対策が発見され、オーストリアのワイン界は復活した。1860年には、ウィーン周辺のクロスターノイブルグで世界最古のワイン栽培専門学校が創設された。また1991年にはオーストリア・ワインアカデミーが開設された。このように、ブドウ栽培とその理論設備、教育機関のコンビネーションはオーストリアが伝統的に誇るものである。ワインアカデミーでは2ヶ月間の基礎ゼミナール、半年間の中・上級ゼミナールや2年間のプロフェッショナル・ゼミでオーストリアワインや世界中のワインの勉強ができ、そのゼミを卒業した者は国際的に認められた学位の「ワイン学士」を得る。ワイン学士は、マスター・オブ・ワインの学位を得るチャンスもある。ドイツ語圏では唯一の教育システムである。1985年、オーストリアは大きいワインスキャンダルにゆさぶられ、ワインの輸出が殆ど不可能になった。そのスキャンダルの結果、オーストリアは、世界最厳のワイン法を施行し、有名な栽培者に負けまいと努力する良く教育された若手の栽培者の手により、オーストリアのワインが復活し、世界中では、高級ワインメーカーの国として評判を得、さまざまな国際新聞、雑誌等がオーストリアの「ワイン奇跡」をテーマにした。