木内酒造

屋号説明

国の名前がつく酒、日本酒をもっと新しい世代や世界の人々に愛されるように。 地域の人々とともに歩んでいけるように。 木内酒造のまわりにいる人々に、少しでもしあわせなひとときを醸せるように。 私たちは、考え、生み出し、そして進み続けます。
 
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木内酒造ならではの、新しい日本酒づくり。
シャンパンのような微発泡の純米吟醸にごり酒「春一輪」。

瓶内二次発酵により、独特の風味と口当たりが生まれました。
これも、木内酒造独自の醸造方法と言えるでしょう。

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ほかにも、ビール製造に使われる密閉タンクを日本酒の貯蔵に利用することで一年中生酒の販売を可能とするなど、木内酒造はこれまでの日本酒造りにとらわれない方法で新たな酒を追求しています。

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常陸野の人々とともに育てた地元の麦で、“日本のビール”を復活。
日本酒造りの蔵から独自の麦酒、常陸野ネストビールが生まれたのが1996年のこと。これが最初の挑戦でした。 本場欧米の原材料を使用し、さまざまなテイストのビールを製造してきましたが、かねてからの望みであった日本ならではのクラフトビールを実現するため、 昭和30年代で栽培が終了していた日本のビール麦「金子ゴールデン」を地元の農家の方々とともに復活生産。ジャパニーズエール「ニッポニア」はこうして誕生しました。

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木内酒造の歴史

菊盛、誕生
文政六年(1823年)、常陸の国那珂郡鴻巣村の庄屋であった木内儀兵衛が酒づくりを始めました。 当時、木内家は地の庄屋として周辺の農家の米を年貢米として水戸藩へ上納しておりました。 儀兵衛は年貢米の余りを蔵にしまっておくより、酒に加工し販売することを考え、交流のあった会津商人より酒造りの道具を買い入れ酒造りを始めました。 当時1年間に使用した米は、年間で白米20石。生産量にして4,000リットル程度のようです。
当時は江戸幕末の新しい思想、改革の時代。水戸は尊王攘夷思想が盛んでした。その中心的な存在が藤田東湖でした。 藤田東湖は実父の実家が木内家よりほんの数百メートルの距離にあり、 また木内儀兵衛と同年代ということで頻繁に木内家に出入りしていました。 さらに、藤田東湖の甥に木内儀兵衛の妹を嫁がせ縁戚関係となりました。 「桜田門外の変」の主謀者のひとり、隣りの静村(現在の那珂市静)の常陸二ノ宮静神社の神主の子息である斎藤監物や、 天狗党の武田耕雲斎ら当時の水戸学を支えた志士達とも親交が深く、儀兵衛は尊王派の彼達を支援すべく酒の名を「菊盛」といたしました。
 変わらぬ純粋な酒づくり
時代は移り変わり、前社長木内造酒夫(みきお)が木内酒造の跡取りとして家業を継承したのは昭和25年でした。 終戦後の物不足の時代。醸造した酒は右から左に飛ぶように売れました。この時期に本来米から醸造される清酒にアルコールや砂糖を加える三倍増醸が発明され、 コストの安い酒が大量に造られるようになりました。 しかし木内はあくまでも品質にこだわり、アルコールなどを添加しない本物の醸造、純米による酒づくりを心がけていました。

その心は今も木内酒造の一人ひとりが受け継ぎ、純粋においしいと思える酒を丹精こめて醸しています。