小池手造り農産加工所

3つの心を込めて商品を提供致します。
もったいない
MOTTAINAI 環境保護活動で世界のことばになりました。
食べ物を粗末にしてはいけないと小さい頃からあらゆる場面で使う「しつけ」の言葉でした
いただきます
食べると言う行為は「自分が他の命を奪って生きている」
当たり前の日常の中に感謝と謙虚さを悟す深い言葉です。
おあがりて
(信州の方言で)さあ、召し上がれ
おもてなしの暖かい言葉です。
農家に合わせた小ロットで多品目の受託加工をすることに努め、生産者と共に手造りされた安心安全な美味しい食品を消費者に提供することを通じて、農と食の大切さを広く消費者に伝え、中山間地域の保全と人の命と営みが尊ばれる社会の実現に寄与してゆきます。

小池手造り農産加工所のDNA
会長、小池芳子の父、信(まこと)の口癖は、『女性にも高等教育の機会を与え、�犲�らが一個人として独立した存在であること�瓩�、これからの女性には求められる』というものであった。昭和20年代から「女性の自立」を口にする男性は極めて少なく、芳子はそんな父の影響もあって、思春期頃から親に極力頼らないということを一つの意思として持ち合わせていた。 高校を卒業した後、地元、喬木南農協に就職。生活課の主任として米や砂糖の配給を始め、生活資材一切を担当していた。他の農協の担当者が男性ばかりの中にあって、ただ一人の女性であったが、父の言葉を聞いて育った芳子は、なんら違和感を覚えることなく会議等にも参画していた。
結婚後、諸事情により家業であった養蚕を担うことになり、いかにして収益を高めるかについて腐心し、最も手間のかかる桑の生産について五軒の農家と契約し、自らは蚕を飼うことに専念した。これが現在、会社の特色の一つに挙げられる「生産者から農産物を預かり、加工委託を受けて製品化する経営方式」の礎となったと言える。 その後、養蚕が下火になったため、何か他に手がける事業はないかと模索した結果、取り組み始めたのが野菜づくりだった。一人では相手にしてもらえなかった農協も、集団化して事業に当たることで取引に応じてくれた。当時としては大金の300万円を貸し付けてくれ、その資金を使って地元の女性たちだけで育苗センターを設立・運営をし始めた。この時、特に留意したのが「農家の女性が子育てをしながら参加できる農業を確立する」ことであった。この思いも、現在の小池手造り農産加工所に引き継がれていると言える。
昭和58年には、規格外の野菜を活かし、女性達の手取り収入を確保するために、無人販売所を開設した。その後、仲間の後押しもあり、喬木村議会議員を二期(八年間)務め、女性の視点を最大限に発揮して、村の安全な水源の確保や、災害で傷ついたリンゴをなんとか加工して世に送り出そうと、県や村の助成を受け、しかも女性だけで「富田農産加工所」を設立した。
平成5年、加工需要の高まりを背景に順調に事業が進展したこともあり、遂に実家の蚕室を改造して「小池手造り農産加工所」として独立を果たす。芳子は60歳であった。 その後、平成12年に当時競売にかかった現在の飯田市下久堅の施設を買い求め、加工施設を拡充。 おかげ様で、現在は全国およそ2,000軒(延べ)の農家さんと取引があり、全国に商品を送っています。
(参考資料:長野県下伊那地方事務所発行「信州農業の元気 かあちゃんたちに学ぶ」より)

60歳起業の不屈のワンマン女性経営者
人の幸せの基本は健康な体であることです。
健康な体は、体に良い食べ物をたっぷりととることで作られます。私たちは、二十年の実績と加工技術を身につけて誰にも負けないもの作りを自負しています。