江の浦海苔本舗
奇跡の海からの贈りもの
森と太陽、海からの恵みをいっぱいに。
福岡、佐賀、長崎、熊本と4県をまたぐ有明海は、九州最大の河川・筑後川をはじめ、有数の流入河川を誇ります。阿蘇山や耳納山地、大分の九重連山など、多くの山々から湧き出す水が、森の恵みをたっぷりと蓄えながら、注ぎこんでいるのです。干潮時は何キロも続く干潟が現れ、独自の生き物たちが生息しています。干潟の泥は田畑の肥料として使われるほど栄養を含んでおり、まさに有明海は自然の宝庫、「奇跡の海」と言われています。海の干満差は、最大6m。満潮時、冷たい海水の中で海苔は栄養を生み出します。そして、干潮時には海面に顔を出し、太陽の光をいっぱいに浴びて、栄養とおいしさを閉じ込めます。 「江の浦海苔本舗」の海苔は、旨味も栄養も最大限に残した有明海の味そのものです。森と太陽と海に育てられた、自然の甘みと潮の香りをご賞味ください。
元海苔漁師、森田修司の決意。
幼少から祖父の海苔養殖の家業を手伝っていた、森田兄弟。弟の森田修司は大人になって、自らも海苔漁師になりました。 しかしある頃から彼は、気になることを耳にするようになりました。「最近の海苔は味が落ちた」と。にわかに信じられず、彼は市販の海苔を食べてみました。するとそれは、彼ら漁師たちが普段食べている海苔とは別物でした。海苔の風味が活かされず、質が落ちていることを感じたのです。 有明海は、日本一海苔づくりに適した海です。僕らの食べている、海苔本来のおいしさを届けたい! 修司は決意しました。有明海の磯の香りと旨みを、そのまま食卓に届けよう。そうして立ち上げたのが「江の浦海苔本舗」です。それは、有明海に育まれた彼の、誇りを懸けた熱い決意でした。
コンビニエンスストアでお握りが販売されるようになった頃から、ご贈答品で海苔の流通に変化がではじめた。 ここ数年、お客様の声として聞くのが「海苔は値段が違うだけで味は変わらない」「最近の海苔は味が落ちた」と言う方がいます。私が毎日食べている海苔は、おいしいです。そのおいしい海苔を一人でも多くの人に食べてもらいたい。だから漁師を辞めて海苔の販売者になりました。 最近では、筑後元気計画の研究会に参加し、江の浦海苔本舗のパッケージをリニュアル。有明海の採れたての海苔をお客様に届けれるように、ネット販売を始めました。
江の浦について
福岡県みやま市高田町江の浦町という小さな町は、夏に伝統のお祭り大蛇山という3匹の大蛇山と、1台の踊り山が、町中を練り歩く祇園祭りがあります。矢部川大橋と、有明海を染めるまっ赤な夕日。ふたつのシンボルがある町です。
海苔漁師の歴史
有明海での養殖は明治になって大牟田から始まる。
福岡県では明治33年に大牟田地先の試験養殖に始まり、大正8年、同地先に10万坪の漁業権を得て昭和14年の漁場放棄まで150余名の着業があった。 その時期に、大正3年生まれの祖父(勇)は大牟田へ海苔の養殖の手伝いへ行く。 その後、戦争へ出兵し、帰ってくる。 戦後昭和22年に大牟田市で再開され、終戦による復員者等により年々着業者の増加と周辺への波及、漁場の拡張が起こった。 専業農家の祖父は、このときは、親戚が大和町で海苔の養殖を始めた為、戦前に海苔を手伝いに行っててた事をいかし海苔養殖を教えるために手伝いに行く。 大きな転機は昭和28年の大水害で、筑後川の氾濫によってこれまでの主漁業であった採貝漁業は壊滅的に被害を受け、このためにのり養殖着業者は一挙に1,000余名に増加した。当時のことに「のり養殖に手を出すと破産する」とか、昔から「海苔は運草」と言われていたことなどを考えると、先行き不安の着業であったと思われ、田と採貝で生活する半農半漁の漁家に参入者が多く、漁船漁業を営む漁業専業者(地区)はのちに遅れて参入することになった。 祖父は、この時期から自分でも漁業をはじめるようになり、漁業と農業を兼業する。 その後、父の後を継ぐ。海苔周辺の生産技術の向上で海苔の作り方も進化していく。
写真:左側(祖父) 右側(にんぷさん)
海苔のシーズンだけ、泊まり込みで、肥後(熊本)や八女の方からにんぷさんを雇っていた。写真は、海苔を裏側から天日干ししている様子です。
昭和40年に海苔網に変わるまで使用されていた女竹。
女竹に海苔を養殖し、手作業で海苔を収穫している様子。
女竹の海苔を養殖している様子。
手前に写っているのが船で、昔は櫓をこいで海に出ていた。